金桜神社 (旧県社)

コードNo.:1012


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■鎮座地: 甲府市御岳町二三四七
■所属支部: 甲府支部
■御祭神: 少彦名命、大己貴命、須佐之男命、日本武命、櫛稲田媛命
■例祭日: 四月二十一日・二十二日
■宮司名: 輿石仁(宮司代務者)
■境内地: 一二、一四六坪
■氏子戸数: 一二戸  崇敬者数 一万人

■由緒沿革:
 名勝昇仙峡の北方二・五粁に欝蒼とそびえ立つ杉木立の中を高い石段を登ると朱塗の金櫻神社が鎮座する。急に清々しい気持に打たれる。式内社で元県社である。社伝によると第十代崇神天皇の御代、全国に疫病が流行したため、悪疫退散、万民息災を祈願された時甲斐国では金峰山頂に少彦名命を鎮祭され、その後第十二代景行天皇の時、日本武命が東国巡行の折山頂に須佐之男命と大己貴命を合祠(示はネ)して国土平安を祈願された。次いで第二十一代雄略天皇の御代、金峰山より今の地に遷され里宮としての金櫻神社が創立された。更に第四十二代文武天皇の二年(約千二百七十年前)大和国吉野山金峰山より蔵王権現を合祀(示はネ)して神仏両道の神社となり、日本三御嶽三大霊場としてその信仰は関東一円の他遠く信越にまで及び、別当の外神職僧侶百余名が奉仕して社運は隆盛をきはめた。また、武将の信仰も厚く広大な山林を神領として認められ、社殿の造営や数々の奉納品がこのことを語ってゐる。このやうに隆盛だった当社も明治維新の神仏分離により信仰も薄らぎ社家も分散し往時の姿は次第に消え、特に昭和三十年十二月十八日失火により随神門神楽殿、本殿、拝殿、中宮、東宮等合せて十三棟の古い社殿を一夜にして焼失したことは、返す返すも遺憾なことであった。古い本殿は鎌倉時代の入母屋造であり、中宮は同時代の三間社流造、東宮は方三間単層入母屋造の、何れも荘麗な建物であった。特に中宮には見事な蟇股の牡丹の唐草があり、また本殿には左甚五郎の作と伝へられた昇竜降竜が有名だったがこれらもすべて焼失した。併し幸にも焼失を免れた社宝の神楽装束、能面八面、鼓胴三点、蒔絵手箱などは大切に保存されてゐる。能面は武田勝頼よりの奉納、鼓胴のうち大胴は勝頼より、小胴は仁科五郎盛信の奉納と記されてをり、当時の代表的作品で往時の盛儀が偲ばれる。このやうに武将の信仰の厚かった所以は武田家にとって御岳が「北の固め」として重要視されてゐたことも見逃せないものと思ふ。
  社記に「以金為神以櫻為霊」といふ言葉があるが、この言葉こそ当神社の本質をよく表現してをり、「金櫻」の社号もここから出たものであらう。甲斐国志によると一の鳥居附近を「櫻大門」といひ、二十町ばかりに古樹数百株が道をはさんで咲き誇り、吉野の櫻を御岳に移したの観があった模様である。故に花の御嶽と云はれた。また、甲州水晶も社有地がその発祥の地であり、甲州水晶の研磨技術も御岳の祠(示はネ)職が京都から習得してこれを広めたもので、今日の水晶の発展の上から御岳は忘れることが出来ない。現在社宝として「火の玉、水の玉」の水晶が社殿にまつられてをり、当社の「水晶護符」もここに起因するものである。
広大な山林のお陰で昭和三十五年には今の新社殿が竣工し、昨年十一月には本殿の昇竜降竜も東京都の吉河孝雄博士の特別寄進により製作奉納された。また永い伝統をもつ御岳大神楽も先年甲府市の指定を受け、現在後継者の養成が計られてをり、往時の夢が一つ一つ着実に実現してゐる感がある。
神社の写真2

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