小室浅間神社 (旧郷社)

コードNo.:7010


神社の写真
■鎮座地: 富士吉田市下吉田五、二二一
■所属支部: 南都留支部
■御祭神: 木華咲耶姫命
■例祭日: 九月十九日
■宮司名: 渡邊平一郎
■境内地: 六五八四坪 境外地 二五三坪
■氏子戸数: 四、〇〇〇戸

■由緒沿革:
祭りは、神社信仰の母である。長い歳月を常に絶えることなく営み続けられてきた祭事の伝承にふれる時、神社の信仰を支へる真実がそこに語られる。その祭りの歴史を通してその信仰の足跡と、祭神崇敬の性格とを知ることができる。
 当神社に、六十年毎に執り行はれる御更衣祭(奉神衣祭)及び例年の流鏑馬神事は、長い伝統に支へられて休むことなく存続されてきただけに、内容に崩れが少なく、正確に古いものが受け継がれてきたものと思はれる。これらの祭事を通して此の社の信仰の跡づけをみる限り、既に鎌倉期辺りには、今みられるやうな祭りの姿と、神社信仰の体形が整ひつつあったものと思料される。
 社伝等には「当社ハ田村麻呂蝦夷討平シ依御?り富士郡大宮浅間ト同時宮建ニテ大同二年草創上浅間
 富士山御室浅間下浅間ハ当村鎮座云々」といった。この甲斐国社寺記にみるやうな創建の由来が説かれてゐる。当神社の記録中、文明十八年、大火後の再建、更に天正年間の再々建等、比較的近い時代のなかでの相つぐ御社殿建立の記事がみられる。この大火の折、それ迄の諸記録、文書類が悉く鳥有に帰したとの重大な記述が特に注目をひく。
 現在「小室浅間神社」と称ばれる当神社は、甲斐国誌、甲斐社寺記等の時代迄の記述には「した宮浅間宮」とか「下宮浅間明神」或は「富士山下宮」等とある。つまり現行の呼称に収められたのは、明治の神社制度改革期迄降ってかにである。又この「下宮」の呼称の意味や由来、その推測される所属等を巡っての論議や所見等の臆説の展開が同じ書物のうちに載せられてゐる。
 元来「下宮浅間」とは、富士山二合目の「小室浅間神社」の里宮を意味する。天文七年の板垣信賢の「達」によると、此の時代迄、毎年二合目の騮ケ馬場に参向、そこで流鏑馬奉仕が行はれてきたことが分かる。
 謂ふ迄もなく「小室」のムロは、モリと同義語であり、神霊のまします処を意味する。故に「小」室も「御」室も同義である。その神霊の常在する富士山二合目「小室浅間神社」即ち山宮から播種期とともに郷(里宮)に御降りになった田の神が、収穫期を以て再び山宮に還御遊ばされる。その折に流鏑馬が奉納され、馬の足跡の占によって御神威を仰ぎ、産子等の生活の安穏が祈願される。翌春迄の冬籠りの間の集落の無事、つまり生活共同体の単位を破壊する火事、諍が部落のうちに起こらぬやう、占に基づきお日待ちの場で祈誓するなど、里人の安全を念ずる熱い祈りが捧げられる処にこの流鏑馬の目的と期待とがある。
 今日、一般的な浅間神社信仰のパターンのうちには、秀麗な富士の山容への憧憬に支へられる。「遥拝崇尚型」或は大山鳴動の中に噴火の激動が招来「鎮護崇尚型」又更には登山そのものの中に、安心立命と欲求とを希望して已まない「霊場崇尚型」といった信仰成立の背景が考へられるが、柳田国男の謂ふ「山宮信仰」的な、山の神、田の神の関係に支へられる産土神的な浅間神社信仰は之もユニークな性格を持つものの一つと云へるであらう。甲斐国志が「此社古上下吉田、及松山三村ノ産神ナリ」と記しているのも、かうした事情の上にたつものと云へよう。
 神社本庁刊の神社名鑑をみても、今日、大方の浅間神社の御祭神が「木華開耶姫命」御一神となってゐる。甲斐国社寺記の「下宮浅間宮書類書上帳」明治元年辰年の「覚」には「祭神 木花開耶姫命」とのみ見られるが、同じ年の慶応四年辰年八月の「富士山下宮社地取調書上帳」は下宮神主、幡野備前の署名で「富士山下宮、浅間大明神、天照大神、犬飼大明神、愛鷹大権現」の表示の許に、御四神の御祭神名が記されてゐる。
 この両書上帳は、慶応、明治と年号は異なっても同じ辰年の記録である。現代流には祭神、木華咲耶姫命であるが、この一年と距離を持たない僅かな時間の推移の中での、全く相違する祭神の記載届出は一体背景に何を意味するものであったのであらうか。
 特に注目をひくのは、富士山縁起に登場する犬飼大明神と愛鷹山信仰、つまり富士山を囲繞する霊山信仰の御祭神である愛鷹大権現が忽焉と消えてしまったことである。
 それが明治政府の方針によるものであったのか、木華咲耶姫命御一神に御祭神を置き換へてしまった処には、神社神道の道筋につながる為の方向への進路とも云ふべく、それまでの御四神を祀る、豊かで自由な、そして幅の広かったであらう浅間神社信仰の教学に大きな変貌を齎す結果を招来してしまったやうに思へる。
 戦後の激しい大変革の時代の下で昭和三十二年、神社本庁の指定する「別表神社」に当神社が加列されたことは、この神社の長い歴史に特筆される重要な意味を担ふ事項である。顧みて明治以降の神社制度の中で、歴代関係者の努力が、特に県社昇格への運動にかけられてきたことは、保存される数々の進達書類に示される処である。曽て県社昇格の悲願に終始した神社が「別表神社」に列格し得た最大の要因は、一に時代の推移と、神社自体の持つ一貫した氏子等の崇敬心に支へられる、大きな信仰の力によるものと理解される。
 顧みれば、村々の一般の産土神社がさうであるやうに、拝殿の一隅に炉を設け、其処を総代等の溜りの場として一年数度の祭りを奉仕してきた遠い昔の時代から、今日みる社務所、粥占殿、直会殿、神札授与所、潔斎館、神楽殿、管理棟などの夫この付属施設と、大、中、小併せて年間七十余の諸祭儀、更には数多くの雑祭等への奉仕と、神社運営の為の諸事務への従事を担当する神職等が、活動を構成する神社の佇ひは、翻っては現在の「小室浅間神社」の面目を担ふに見るものと云へよう。
 時代は人の意識を変へ、生活の内容を著しく変貌させつつある。さうした現実の中で、産土神社も又それなりの教学の展開と、課題との取組みにより対応をしてゆかねばならない。永い伝統は誇りに足りるものではあるが、その儘ではその価値を生かすことは出来ない。在来の祭りを大切にすると同時に、神社の持つ伝統の中から、時代の要請に結びつく新しい教学が支へる祭りを生んでゆくことも又必要なことではないか。神社の環境の中には無限の可能性に支へられる、実に多くの遺産が、新しい時代に望んでの出番と、明日の神社の活動を待ってゐる。
 此処で最も重要且つ大切なことは神の導きである、伝承される流鏑馬祭りが斎行され、占人により馬蹄占ひが出され宮司が神前に報告の後社印を押印、翌日から各町、各班毎に「お日待」が開催される。神職が出向し祈願を行ひ占ひ標を発表し「御日待」の意義等を講話する。後に皆は持ち寄った食事を共に分かち褒め合ひ食べて「神人共食」神様からの賜物を感謝し健康である証を確認するのである。次に語り合ふ、無論火事には気を付けて争ひ事は止めませうね、然しその後の話は「あそこのをぢさんが怪我したんだって皆で手伝ってやらうよ、あそこの子供が病気だって、ぢゃあ家に良い薬があるので持っていってやるね」等の様々な話が出る、人が生きるうへに於いて大切な支へ合ひの心を確認する「神人和楽」である。次に食事をしながら言葉を交はし明くる朝日を待つ「生かされて生きてゐる証」を確認し感謝するのである。朝日を拝めない人は亡くなってゐる証であるからである。実に自然の摂理に叶ふ神の教へと導きである。
神社の写真2
神社の写真3

地図


■年間行事・祭事(主なもの)

年間行事・祭事(主なもの)
一月 1日 元旦祭
14日 筒粥祭
二月 3日 節分祭
11日 紀元祭
17日 祈年祭
五月 5日 初申祭・安産祈願祭
25日 例大祭
六月 28日 例祭
30日 夏越大祓
31日 身曽岐祭
九月 18日(今年13日) やぶさめ祭宵宮祭
19日(今年14日) やぶさめ祭例大祭
十一月 23日 新嘗祭 大祭
十二月 23日 天長祭
31日 師走大祓式