冨士御室浅間神社 (旧県社)

コードNo.:7150


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■鎮座地: 本宮 南都留郡富士河口湖町勝山富士山二合目三、九五三
■所属支部: 南都留支部
■御祭神: 木花開耶姫命
■例祭日: 九月九日
■宮司名: 支部長
■境内地: 本宮社 三三、九〇〇坪  里宮社 一四、三四〇坪
■氏子戸数: 三五二戸 崇敬者二、一一二坪

■由緒沿革:
 人皇第四十二代文武天皇大宝三年四月七日藤原義忠公奉斎す。和銅元年戌申山中荊棘を伐り開き祭場の形態を造る。養老四年庚申靈畤の上に雨屋を建立せしが延暦十九年噴火の為炎上次で坂上田村麻呂卿蝦夷出征の途次戦捷を祈らる。大同二年丁亥右蝦夷征服の報賽として社殿を造営し規模始めて壮観なりき。貞観六年五月富士暴火の際、當社再び炎上殿宇は勿論先に創祀の靈石に至る迄烟消噴散その破片だも留めざりしは往年奉斎當時の記念と云ひ殊に神靈を瀆し奉ること恐倶の外之なく同年九月前五年中諸国疫行はれ民庶の死するもの多く依て神明の守護を修する為伊予親王の王孫勅使として當國へ御参向の砌當社御奉斎あらせられ、更に社殿再興営む。天暦九乙卯年村上天皇御修覆是れ田村将軍以降由緒を以て工費の恩賜を受く。延久二年庚戌修覆工費前同断たり元暦元年申辰神殿拝殿共大破に付御補助金拝受の上改造の工を起し文治五年戌申七月二十八日工事落成を告たりと云ふ。建治元年申戌修覆御補助金前同断たり。暦応三年巳卯神楽殿籠殿を増設す。文明七乙未尾張守正喜御修覆ありたるも後社殿大破に及び大永五年國主武田信虎公御修理あり。次で同公以後武田家に於て當社を御崇敬の余り大に土木の工を起し方位検案の上甲府城と當社々門と南北対向せしめ以て朝夕遥拝の便を図る。弘治二年より永禄元年に至る此間三年に亘て工事竣工し、構造宏大茲に又一層の美観を添へたりと云ふ。但し神殿の用材は皆元暦年中のものを再用せしとなり。
 天正十六年岩殿城主鳥居元忠公鳥居並に石燈籠を立替記念として御書付を添へ置かる。慶長二年勝山城主浅野左右ヱ門佐氏重公神楽殿御改築後証として御書添へあり。慶長十七年五月領主鳥居土佐守成次公社殿御造営御棟札を鎮鄭せらる。右は永禄元年の改造を去る僅か五十有五年のみなりしが風雨荒く積雪多きが為め非常の破損を生ぜしを以て此にその復旧を謀りしなりと云ふ。慶安元年領主秋元越中守修覆を加へられ其の証として御書付を下し置かる。元禄十一年徳川幕府へ出願の上御補助を得、且つ本郡 領主秋元但馬守合資の上大に修理せらる。慶應三年、徳川幕府より満五ヵ年間の許可を得て関東地方及本國各郡の御免勤化を募り修覆を加ふ。但し元禄年中より當年に至るの間、本郡代官所より其の都度補助を興へられし。大小の修理を営みしこと実に再三再四のみならず、且つ當社専修の富士講として東京府内の講社中神田八講浅草十三永續講の如き。就中村上講丸京講の両講結成以来現時に及ぶも代々承祖の講主其の遺志を継ぎ、當社の栄枯存廃を以て殆其の講社の名誉不名誉となし、常に維持保存に盡す。是を以て慶長十七年の造営より今日に至る。社殿の荘厳今昔変る所なきことと現に人の知る処なり。
 本宮富士山二合目鎮座本殿は棟札に依り慶長十七年に建立されたことが知られる。この本殿は桃山時代の特色をもった技法の優れた建造物で建立後慶安元年、元禄十一年、天保十二年、慶應三年の各修理をえて相當改変はされたが當初の様式技法はよく保存されて居り、昭和四十二年五月二十九日山梨県文化財の指定を受けた。近年に至り登山道が五合目までドライブウェイとなり本宮に参拝の不便著く訪れるハイカ-の寝ぐら炊事場等に利用され火災の関係と加へて湿地帯で腐朽度高まり、登山道附近の他の神社等既に倒潰してをる現状より移築保存に、修理に県文化課が踏み切って昭和四十八年五月一日工事に着手分神と指定建物を里宮の境内の二合目方位に里宮と向かひあはせて移築した。解体に当り本殿側面内法長押裏より慶長十七年四月二十三日の墨書を発見、前記時を立証し昭和四十九年五月三十一日工事を完了した。付加指定の棟札一枚あり、本殿造営の事情が判明する。里宮 河口湖畔勝山村三、四五三
棟札 封
   (表)
    ・聖主天中天   大梵天主大工藤原
    ・加陵嚬伽声   関出雲守久茂封
    ・以奉造営富士山北室大檀那鳥居守土
     左守成次
    ・哀愍衆生者
    ・我等今敬禮 帝釈天主 小工藤原山
     内和泉守敢直封

   (裏)風災応身 神主小佐野越後守茂能法
      仏

    ・水災金當天下主  徳川家康  千時慶
                  同 秀忠
     長意運
     十七壬子天五月大吉辰

    ・火災報國 奉公  牧野将監
                 福山玄蕃頭

     
 甲斐國志に、是富士山中最初勧請ノ社地也按ズル二三代実録貞観七年十二月九日云云仰而見之、正中最飾二造社宮恒有下四隅以二丹青石一、立中其四面上石高壱丈八尺許、広三尺、厚壱尺余、立石之間、相去壱尺、中有二一重高閣一以石講営、彩色美麗不レ可レ勝レ言望三請斎祭兼預二官社略。又別項に是小室浅間ノ里宮ナリ、古ハ舟津、木立、勝山、大嵐、成沢、大石、長浜、七村ノ産神也。慶長八年九月鳥居土佐守家士ノ文書二大原七郷衆トアル是ナリ。
 里宮は第六二代村上天皇天徳二年当代氏子崇敬者の礼拝の便を計り河口湖畔風光佳麗な老松巨樹繁る現地に社殿を建立、明治四十年の大水害に於て数ヶ月間境内水没し遂に巨樹は枯死惨状を極め
 其の一本も残れず現境内林樹は氏子献身的に植栽に懸るものなり実に一、四三四〇坪桧香る靈域を呈して居る。
 当冨士山御室浅間神社として特記すべき古式流鏑馬祭について史跡縁起がある。
 人皇第六十一代朱雀天皇時代下総國平将門反乱す。天皇俵藤太郎秀郷を派遣し鎮定して秀郷当社に神護を祈請し門出馬揃を行ふ帰途戦勝を祝し神楽を奏し惣馬にて御礼祭をしたり鈴原騮ヶ馬場之なり降而人皇第七十二代白川天皇後三年の役起る。勅を奉じ源義家清原軍と戦ふ頑強なる抵抗續く苦戦の報況に伝はる弟新羅三郎義光官を辞し祖父甲斐守頼信公縁の地当國に援軍を求め山伏案内を含め五千人尚巨摩黒駒の駿馬二百余頭を得,天慶鎮定の古事に傚ひ冨士御室神社に神護を乞ひ祈願すること二十一日満願夜明と倶に濁酒を汲み進発せり。兄弟軍協力善戦し之を鎮定九月九日再び本宮二合目下鈴原騮ケ馬場に立ち寄り陣楽を奏し盛大なる御礼祭を挙げたり以来九月九日芝生祭九月十九日流鏑馬神事の奉納となった。新羅三郎義光戦功により甲斐守となり、この人が甲斐源氏の遠祖である。その後武田家甲斐に據り代々栄え信虎、信玄、勝頼の三公殊に當社を尊崇し寄付、願書等多く所蔵文書“勝山記”などに明らかである。勝山の冨士御室浅間神社の流鏑馬も慶長十七年の本宮富士山二合目社殿造営後は小佐野越後守の司祭により勝山村を中心に大原七郷の氏子等に依って九月十九日に盛大に奉納され祭政一致の時代を創り上げた明治の改革、四民平等等家格貴賎の別撤廃、また日清戦役などにより大原各郷村出金整はず度々休止復活を繰返したが明治三十年を最後として止むなく中断に至った。この様に十一世紀に始まる古式豊かな戦國の伝統行事を八十四年振りに昭和五十五年復活し四月二十五日里宮祭に冨士御室浅間神社の古い歴史と祭政両面道に優れた先人の御遺徳を偲ぶと共に由緒を深く御神慮に奉謝し威厳を発揮して居る。歴史の旧い神社には尊い宝物が多い。冨士御室浅間神社が一千二百八十有余年の古い伝統を輝して富士山中最古の鎮座社として本宮勲功坐して里宮社も歳後れじと大原七郷衆氏子の上に神祇崇敬を●め関八州はもとより遠く奥州に至る治國太平の大政を敷き王侯諸士の崇拝を拡く案ずるを古文書も飛鳥時代より記載、勝山記又文明七乙未歳以後二八件にのぼる現御所蔵古文状等天下無双の誇りとする重要性に在りて是れ所蔵保管に決して永い一千二百八十有余年の歳月を経るも栄枯盛衰はなく益々靈徳を仰ぎつつも絶えず御神慮の隋に正しい神威を捧げ奉り惟神の大道を宣揚両宮を御創祀由緒に準じて御高徳を稱へ奉り御神慮添へ奉りて昭和二十六年七月一日別表に掲げる格の別に預り神社本庁統轄の冨士御室浅間神社として社光昭々と尊信音奉仕に在る。
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